2016-05-20

清水寺「アテルイ・モレ」の碑 東北で知った歴史に巡り合う

東北の赴任して以降、京の都で行ってみたい場所がありました。
征夷大将軍だった坂上田村麻呂がここを拠点としていた蝦夷を討伐した記念として建てた達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや・びしゃもんどう)に通っているうち、歴史に興味がわいてきました。 延暦21(802)年大墓公阿弖流爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏。2人は坂上田村麻呂に従い7月10日に平安京に入りました。坂上田村麻呂2人の命を救うよう提言したものの、8月13日に河内国で処刑されました。 二人の顕彰碑があると知り清水寺に。
平安建都1200年を期して平成6(1994)年に建立されたもので、音羽の滝から仁王門方面へ戻る道の左手に立っています。
ほとんどの観光客は通り過ぎていますが、中には足を止める人も。
「八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国(ひたかみのくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。胆沢(いさわ:岩手県水沢市地方)の首領、太墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は数十年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし、公家達の反対により阿弖流為・母礼は八〇二年八月十三日河内国で処刑された。 平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為・母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄もって瞑さるべし。」
と碑文に書かれていました。
東北では、アテルイ・モレの子どもといわれている「人首丸(ひとかべ・まる)」や「鬼死骸」をはじめとした地名が今でも残っています。
人首丸は、今でも郷土の英雄として祭られています。 東北で知った歴史が、関西で再び巡り合ったひとときでした。



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