2021-06-15

武蔵坊弁慶の命日6月15日 生涯ゆかりの地を訪ねる

「♪京の五条の橋の上  大のおとこの弁慶は  」
五条大橋の西詰には、京人形風に作られた「牛若丸と弁慶の石像」が建てられています。

諸説ありますが、今日6月15日は、武蔵坊弁慶(?-1189)が文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉)に亡くなったとされる日です。

諸国漫遊旅をしているうちに、武蔵坊弁慶のゆかりの地を訪ねていました。


松江市本庄町にある出生の地。
弁慶の母弁吉は、和歌山県田辺市の生まれでしたが、縁あって長海の里に来て、1151(仁平元)年3月3日弁慶を生んだといいます。



弁慶産湯の井戸跡が残っています。


住んでいる島にも弁慶の言い伝え。沖美町是長にある入鹿(いるか)海岸は、弁慶岩が鎮座しています。
武蔵坊弁慶が、宮島にある海抜530メートルの弥山山頂から、沖の平家軍船に目掛けて投げたところ、力余ってここまで届いたと言われています。


弥山からは赤く指さしているあたり。とてつもなく遠く投げたものです(笑)


弁慶終えんの地は奥州平泉。

藤原秀衡(1122-1187)のもとへ身を寄せていましたが、秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡(1155-1189)は源頼朝の圧力に屈し、義経主従を衣川館(現在の高館義経堂)に襲った(衣川の戦い)。


多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って孤軍奮闘するも、敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれています。


「色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」

遺骸をこの地に葬り五輪塔を建て、俳人、中尊寺の僧となった素鳥の詠んだ石碑が建てられています。



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